NEWS & TOPICSバックナンバー

19/12/25
№22 令和元年12/25 オフィスTENBIN

 新しい元号、令和元年は間もなく終わろうとしている。
 不定期なコラムであることは初回から断っていたが、これほど不定期になるとは思いもしなかった。
 言い訳はたっぷりある。気の利いたタイトルが思いつかない。体調不良。そもそもやる気がない。etc


 前回書いた(なんと2年前)漫画本は令和元年7月には発売にまで達した。しかし、それからがいけない。完成が決定的になった時、早春あたりから体調が芳しくないにも関わらず、本の完成予告のご案内を出したまま今年を終わろうとしているが、その間の8月下旬とうとう倒れてしまった。
 その時の記憶が全くないが病院に運び込まれて数時間後にぼんやりと覚醒したようだ。その間が推定でも26時間くらい気を失っていたようだ。運よく助かったが、口さがない友人たちは、まだすることがあるので亡夫に追い帰されたのだという。

 亡夫に追い帰されなくても、漫画本の正式なご案内も出さぬまま、それに平成が終わる4月30日は奇しくも【日本映像企画】の42期目の決算日。その日に法人を解散。令和元年5月1日から個人事業として【オフィスTENBIN】を発足。そのご案内もなさぬまま中途半端になっているので、もう少し身の回りを片付けてから、いわゆる流行語の(終活)してから改めて出直して来いと言われたようだ。

 法人の解散は初めてだったがなんと複雑な。始めるときは印鑑と資本金を用意して役所に届けて有限会社としての出発だったが、解散はうちのように零零細企業でも入院中も退院後も書類の多いこと。時間がかかったのは入院期間は一月半ほどだが退院後に思いがけずに体の不自由さ。まともに歩けず食べられず、やっと薄皮がはがれるように動けるようになったのは12月に入ってから。その生きているのか死んでいるのかわからない状態が長引かせたのだろう。

 法人を解散したのだからすっきり辞める選択も出来たが、最後の仕事として自費出版で制作したばかり。自費出版とはいえ、皆様の手に触れて頂くに一番の近道の書店での販売権も流通権も持たない。DVDでは多大な販売貢献をしていただいたPHP研究所で、3000冊を買い取るという条件でお願いした。
 発売まで順調に行く筈だった。重大なミスが見つかるまで。

 なんでもないことだが奥付に私の名前が外されていたこと。DVDご購入者に一冊ご進呈させて頂いているが、そこのお客様から自費出版と伺ったが、あれじゃPHPの自社の企画制作と取られてしまうという驚くようなご指摘。完成する前の編集段階でそのことは既に伝えていたが、原作でも作画でもない人を奥付に乗せるとういうのは前例がないと冷たく突き放された。前例がなければ作ればいいだけではないか。

 完成本を焼却処分にするのは忍びないのでシールを貼ることで一件落着かと思えたが、その時の過大なストレスが倒れる原因になった。他の条件も相俟ってのアクシデントであったが、今回の出来事は私には一生忘れられないと思う。

 良くも悪くも大きな出来事は生涯忘れ得ぬものとなる。今回の漫画本の出版と病気。セットで思い出すことになるのでしょうね。

 「てんびんの詩」の漫画本を、漫画マニアの方にはお薦めしたい。
 作画家さんの手描きへのこだわり。特に細い線を丁寧に描かれている美しさ。スクリーントーンなるものの手作業も最近の漫画家さんの中では希少価値があるようだ。人物・背景は100%手描き!!
 あとがきも入れて200頁もの量は読みごたえがある。細かい線を印刷でつぶさないでという要望も満たしてくれた。その分紙質は重みを増す。送料も増す。あ~ぁ
 漫画本はごくごく限定的ではあるが書店にも出ているらしいが、アマゾンでも入手困難らしい。もし、読みたいという人がいたら当方、オフィスTENBIN(info@tenbinnouta.com)にお問い合わせください。

 数年ぶりのコラム。お読み頂きありがとうございました。
 良いお年をお迎えください。来年もよろしくお願いします。
                                  竹本 梢
17/8/25
№21 長かった漫画への道のり

 前回から一年以上も空いてしまい、病気でもしたのかと心配してくれた人もいた。
御免なさい。大病はしていませんが、怠慢の海の中にとっぷり浸かっていました。

 漫画化への再開をこの欄でお知らせしてから1年以上も過ぎてしまった。
その文末には、何ものにも邪魔されないようにと祈っている。
 順調に進んでいた漫画本制作だったが、作画家さんの心身不良というアクシデントに見舞われ白紙に戻 るかに見えた。だが大作少年が「逃げるのかおばちゃん」と夢にまで現れて、諦めたくないという作画家 さんの思いに応えたく、彼女で再スタート。

 大病を患い、作画をどんなに頑張っても一日1頁しか描けないという事情も承知の上だ。しかし、一度 は白紙に戻そうとした彼女の経験は作品上に重要な役割を果たしそうで、その紙面を期待したい。画面上 で嘘をついてまで売ろうとして嫌気がさして、鍋蓋を捨てようとしたあのシーンと彼女の揺れ動く作画放 棄が、私にも一度ならずとも放棄しかけた意思の弱さとどうしてもシンクロしてしまう。私の好きなシー ンの一つでもある。

 20数年前、漫画化を思いついたが、様々な障害の壁にぶつかって保留とした。が、やり残した感がぬ ぐえず再開。壁は年月が解決したかというとそうでもない。ならばその当時に障害を乗り越えて完成させ ても良かったのではないかと思うが時間は無駄に重ねていたのではなさそうだ。放棄という経験の重みは、 順風満帆では捉え方が違っていたことだろう。

 当初から自費出版としたかったが、長い歳月は体力も知力も容赦なく奪っていく。製作費をすべて賄う 自費出版には違いないが、これからは販売を含めて出版社が絡んでいくことになる。
 古希を既に追い越した身にはてんびんの詩という原作の著作権だけを手元に置いて手放すことになる。 その出版に名乗りを上げてくれたのは、PHP研究所。
 無数にある出版業界で同社を選んだのは、当出版社を選ぶお客様の世界観が似ているような気がしたか らだ。無論、日本中には良識のある出版社も数多あることは承知の上だ。平たく言えば根底に流れる思想 というべきか。

 それでも多くの方に手に取ってもらうには書店での配置が重要な役割を果たすことは間違いない。だが その書店での立ち位置が激変していると出版営業マンは言う。ネットという新たな市場が席巻していると いう。私のような化石のような存在になると、店頭で手にした書籍たちと、一生の友となりうる出会いが 少なからずあったことを考えると、ぱらぱらと開くことも出来ない本との遭遇は考えられない。尤ももう 廃版になっているような本はネット頼りではあるが。
 出版の世界も商業の世界だ。売れないとなると廃版も覚悟しなければならない。DVDビデオが再発注ま でに期間がありすぎ、廃棄という憂き目にもあった。一社は免れたが一社は処分された。再度DVDに起こ すまでに経費も日数も経ったが、ロット数を減らして発注をかけていれば廃棄は免れたかもしれない。

 てんびんの詩はご承知のように事業の研修に使われている。年に数回、研修教材として同じ商品を何度 となく視聴しているという担当者も少なくない。100回以上視聴したという強者もいた。飽きないです かと聞くと、すっかりセリフも覚えたという返事。今は故人となられたが事業に行き詰まったとき、一人 で観ているという経営者の孤独を垣間見ることもあった。上に立つ人ほど孤独になるようだ。私のように 継承されて来ただけのものですら、相談相手もなく孤独に苛まれることも縷々あった。

 漫画本になると画面が紙面に変わるが、孤独と対峙する人はいるだろうか。業界でネームと呼ばれるラ フ画を見たとき、絵に描かれていない空間に、映画を観たことの無い人が入り込める自分だけの世界があ るような気がした。極めて個人的な感想ではあるが・・・竹本 梢

16/5/15
№20 てんびんの詩と方言

 映画「てんびんの詩」で使われている方言は関西弁。細かく分類すると滋賀弁。滋賀県は琵琶湖を挟ん で湖東湖西とに分かれているが、この映画の舞台になっているのは湖東と呼ばれる地域。各地でも地域に よって訛りが違うように東と西とではかなり差がある。細かい分類は専門家に任せるとして、映画の中で 感じたいくつかを書いてみたい。

 湖東地方は多くの近江商人を輩出した地域でもある。それでも画面では京都から嫁いできたお母さんの 話し言葉ではんなりと分かり易くなっている。「はんなり」とは表現の難しい京言葉ですが華やかな明るい さまとして広く知られているが最近は本来の言葉の意味と異なり、穏やかで柔らかな美しさを表すときに 使われている。「ヤバイ」が身の危険や悪事が見つかりそうな時などのよからぬ場面で使われていたのが、 最近の若い人はすごいとか魅力的といった肯定的な意味で使っている人が多いように、詞は本来変化して いくモノなので、あまり昔にこだわるとそれこそ「マズイ」かも。

 「てんびんの詩」は近江が舞台とはいえ、原作者の竹本は石川県出身。監督は九州佐賀県出身。制作に かかわったスタッフの大部分は県外出身者と地域に根ざしたものは少ない。正確に近江弁が使われなかっ たのはそんな理由かもしれないが、話し言葉自体に多少違和感はあるとしても大きな差はない。制作者と したら普通に話していることで掘り下げることはなかったようだ。近年は情報が発達して本来の訛りや言 い回しが変化していくようだ。

 大津市は百人一首にも読まれている「逢坂の関」を超えたらそこは京都。大津が京言葉に近いのは港町 として商業が盛んだったからだろう。逢坂の関が出たので少し説明を。今でも勾配のある国道一号線だが、 当時は難渋な峠だった。アスファルト道路の無い時代雨が降ると車輪が泥道にとられ通行は困難を極めた。 江戸幕府は「車石」という轍に合わせた石を京都三条大橋から大津八町筋まで三里(約12㎞)設置するこ とで行き来しやすくするに当たり心学者脇坂義堂や近江商人中井源左衛門らの一部寄進によって賄われた (大津市歴史博物館説明)。
 他に近江商人は瀬田の唐橋の架け替え工事や寺院などの建設に、儲けた財力は公共事業に使われること が多かった。三方よしといういい方は既にその当時に培われていたようだ。
 脇道にそれたが交通事情が良くなると方言もそんなに大きな差がなくなるのは当然だろう。言葉のイン トネーションが違っているからこそ暖かく感じるのだろう。しかし、海外からのお客さまには関西弁が解 り辛いと嘆いていた。

 さてDVDではてんびんの詩の単品で出した原点編では外国語字幕も入れた。翻訳者から標準語に直し てといってきた。直してみた。でも何か違う。文字に書いても画面とはしっくりいかない。それで音声と 同じ方言で書いてみた。あたたかい。人物の生活感が出てくる。直しようがないので外国語の翻訳者には 括弧書きで標準語の翻訳をしたものを渡した。これはこういう意味だがあなたの国のスラングで訳して欲 しいと。例えば画面で子どもの事を「ガキ」といってののしる場面がある。この「ガキ」もその国でのの しる言語に訳して欲しいとお願いした。縁起を気にする「験を担ぐ」も自国の似た言い回しをお願いした。 恥を曝すと私は外国語は皆目解せない。当然専門家に頼るしかない。

 翻訳者は意図を理解して頂いたと見えて、特に中国語では翻訳は完ぺきだと称賛された。だが英訳の反 応が今ひとつ。日本語も良くわかるアジア系の男性に「文法的には何の間違いもない」と聞かされた時正 直がっかりした。スラングの多い話し言葉を文法通りに話すだろうかと疑問を持つ。多分滅茶苦茶な語列で 普段はしゃべるのではなかろうか。
 訳者を見ると日本人の名前が記されていた。推測の域を出ないが彼は関西弁は使ったことはなく、彼自 身の日常語に直して翻訳したのだろうかと思った。
 どういう反応があるか知りたくて某商社の現地社員の研修を行った時、それぞれの言語で見てもらった 感想を聞かせて頂いた。韓中は問題なかったが英訳が今一芳しくなかったようだ。これは生活文化の違い かと思っていたが、中国系フランス人に英訳で見てもらったところ、日本人と同じように感動したと言っ て頂いた。どうもアジア人に共通するDNAのなせる業かとこちらが甚く感動した。

 余談だがもうかれこれ40年くらい前、国際線の機上で「寅さん」を上映する翻訳者と話したことがあった。寅さんがテキヤ業で啖呵を切るあたりずい分汚い言葉を使うが、そのセリフの直訳は難しいので、似たような言い回しを探したということだった。観客の笑いのタイムラグを避けるためだという。その時の会話を翻訳するに当たり思い出した。直訳は避けたい。

 蛇足ながら私たち夫婦は北陸と九州の訛りに、お互いの生家を訪ねたときそこの親戚等が話す言葉には 通訳が要った。まるで外国語を聞いているようだった。今では遠い記憶である。竹本梢

16/03/17
№19 原点編が漫画に?

 のんびり屋の私。争いごとは苦手。人より先んずることなど私の辞書にはない。だからというわけではないが阪神大震災前に構想を練っていた「てんびんの詩」原点編の漫画化。
 当時コンタクトを取っていた漫画家さんがネットで検索したら専門学校や文化教室で講師として活躍していることを知った。20数年の歳月はただ外見上の変化にはとどまらない。お互い大病を患い、生活も激変していた。現在進行中の委託単行本やイラストなどが終わり次第、てんびんの詩の作画に取り掛かりたいと云って頂いた。漫画は職人の世界である。時間がかかる。こちらも締め切りはあって無きが如くなので、だいたいの製本までの完成を来年中にと伝えた。

 コミック本から映画化されているのは最近のドラマや映画に多い。しかしその逆は少ないのではなかろうか。紙本から実写は足し算の世界。映画から漫画だと引き算の世界。動いている絵が動かなくなるのだから、当然一本一本の線もおろそかに出来ない。難しい仕事であることは最初に依頼した時から悩んだことだ。それともう一つ悩んだのは、てんびんの詩のファンの方々がストーリーを完全に自分のものと思っている人が少なくないことだった。イメージしているストーリーをまるで畑違いの展開にはとても出来ない。となると当然映画に忠実にならざるを得ない。何度も視聴された方にはお分かりかと思うが、あの映画は1シーン1シーンが、固定している。無駄なカットがほとんどない。最初から研修教材が目的だったので、余計な動きのないつまり芸術的要素が抑えられた映画であったことだ。
 前回書いた、今は亡き梅津監督の演出がいぶし銀のように光っている。

 延びに延びた漫画化をこれほど遅れさせた理由は後回しにするとしても、物理的に避けられない問題と直面した。人並みに古来稀なるものとの遭遇。最近はすっかり様変わりした老人の生活。しかしイメ一ジ的には孫に囲まれ庭いじりなどしてのんびりした生活を送れても不思議ではないが、最近の流行なのか非婚化は我が家も同じ。当然孫はいないし、いじりたい庭もない。映画に付き物の著作権を誰の遠慮もいらず手を加えられるのは私しかいない。それで著作権保持者として漫画化を思いついた。もっとも思いついたのは前述の頃。そこに古来稀なる化け物が猛烈に反発した。何かやり残したことはないか。そのやり残したことに好々爺を捨てて挑戦することにした。そのきっかけを作ってくれたのは二つ。

 一つは周囲の高齢者と呼ばれる人が決して年齢に甘んじてないこと。中国沙漠緑化団のメンバーもその一つ。その人たちを見ていると私はまだまだひよこ。ー回りも上の人が名を連ねている。
 もう一つは書店でたまたま目にしたフランクリン・コヴィー・ジャパン監修の「漫画でわかる『七つの習慣』(宝島社刊)」。漫画は作画だけで展開されていると思っていた無知な私に、文字情報も適度に入っている書籍に背中を押された。少年少女漫画のイメージしかなかった漫画の世界の扉が大きく開かれた。
 作画家さんには日本の漫画には少年・少女・青年漫画など・・様々なジャンルがありそれぞれ別業界と考えたらいいと教えを乞うた。構想している漫画はどの分類に入るのか。

 新しい冒険にどうぞ何ものにも邪魔されませぬように。  竹本梢

15/12/15
№18 梅津監督

 毎年12月前後に届く賀状欠礼の喪中はがき。大切な親族との別れに涙したであろう一葉のはがき。 年齢の順からいけば老いた肉親がほとんどを占めるが、中には大事な子どもとの別れなどに出会うと一度 も会うことの無かったかの人に思いを馳せてしまう。同時に見送ることになった親の気持ちが切ない。 そんな訃報の中に思いがけない人の名を見たときは正直胸が突かれた。

 てんびんの詩の第一部原点編と第二部自立編を監督してくれた梅津明治郎さんのお名前を見たとき、年 齢は85歳と日本人の男性平均寿命より長生きではあったがまるで突然のように感じた自身に驚いた。  作品が完結すると疎遠になる業界の中でも珍しく、完成後でも年に一度くらいは会うことはあった。し かしここ10年くらいそれもいつしか長い無沙汰となっていた。最後に会ったのは5~6年くらい前。グ ループホームに通っているという連絡が来て、第二部で大作少年役を演じた千葉君と出かけた。  記憶があいまいな中で、もう中年になっている千葉君を「大ちゃん」と呼んで驚いたが、これは撮影中 に頻繁に会っていた愚息の幼少期に大ちゃんと可愛がってもらっていたので、千葉君を「大ちゃん大きく なったね」といったのがどちらも大ちゃんだったことで千葉君も困惑したようだ。後で説明したら彼はよ うやく納得したが、梅津監督の中で二人ともしっかり記憶として残っていたのが嬉しかった。  世間話などしている中で今度はこういうものをやりたいと制作への抱負を聞かせて頂いた。てんびんの 詩の続編が出来たらいいねと言って別れたが、彼は老いてもなお最後まで制作意欲は失わなかったのでは なかろうか。今頃は先に逝った竹本と映画の話を杯を交わしながら語り合っているだろう。

 てんびんの詩原点編をDVD化した時、特典映像「Serendipity in てんびんの詩」の関係者出演で監督 にも出て頂いたが、酒を飲み過ぎて転倒し頭を怪我したと聞かされていたが、その後遺症か呂律が怪しか ったが、それでも撮影苦労話など懐かしく語って頂いた。同時録画した大作少年役の吉野君に京都の自宅 まで送ってもらったのが、元気な梅津監督をみた最後の姿だった。完成したDVDは直接会うことなく郵 送してしまったが、DVD再生機が当時まだないと言っていたが観て頂いていただろうか。  故竹本は家庭を持とうとしない梅津監督を気にしていたが、グループホームに見舞いに行ったとき姪御 さんが時折訪ねて面倒みていると聞かされていたので、少し安心した記憶がある。  喪中のはがきの差出人は弟という人だった。監督とは地元の放送局からの委託業務で演出をやって頂い ていたが、その時雑談の中で弟が大学教授になったお祝いの席で他の兄弟から「あんた、いつまで何して るの?」と叱咤されたと、しかし嬉しそうに話してくれたその時の弟さんかしら。

 最近著名な方々の訃報を聞くたび、同じ時代の空気を吸ってきたのがだんだんとその空気が薄まってい くようで切なく苦しい。ご冥福を祈ります。         竹本梢

15/11/17
№17 中国植林②

 14年目を迎えた日中友好砂漠緑化作業。今年も8月の下旬に行ってきました。
 現地ガイドさんによれば、植樹という地道な行動が中国国内でも動きつつあるようで、政府も国民一人当たり10本の植樹を推奨しているとか。13億人の全国民が植樹していけばあっと云う間に緑地帯になれそうだと単純に思いましたが、当然無理な話。そこで参加出来ない人は維持費などの経済面で協力しているようです。植物は植えた後の管理があればこその生育。地元の農民の協力で枝の伐採や定期的な水やり。そこで経済効果も発生して農民の生活も豊かになってきているとか。 植林後、ガタガタ道をランドクルーザーやジープに乗り案内されたのは14年前に最初に植樹した場所。 障子松が高さ7mまで成長し、周辺は森の形態を成し、幾種類かのきのこが落ち葉の陰から頭を出していました。感動しました。そのように成果は徐々に目に見える形で広がりつつあるようです。経済的に豊かになった村人の新築された家屋がその成果を象徴しているようです。
 ボランティアで汗を流すのは日本人だけとは限らなく隣の韓国は言わずもがな、ヨーロッパ各地からの参加も多いと聞きました。(ランドクルーザーは沙漠の道を走るのに不可欠なようで至る所で見受けられました。故障が少ない車種として活躍していると何度も聞いてきました。日本車万歳!)

 しかし、中国13億人の人口が植樹に関心をもてば一気に沙漠化は解消しそうですが、それ以上に沙漠化は進んでいるようです。一度沙漠になってしまえば修復には気が遠くなるような時間との闘い。
 中国全土なのか地球上全体なのか、全部が緑化するには単純計算しても60万年かかるだろうと話していました。多分中国全土だと思いますが、それにしても気の長い話ではあります。がその前に地球の生物がそれまで生き延びられるかのほうが現実的かもしれません。
 因みに中国は少子高齢化で一人っ子政策を解除するとか。数年後には何億人の人口増になっていることでしょうか。数字の桁が違うのも中国の特長ともいえます。

 私たちは数年交代で植樹する地域が変わっていますが、今年も昨年に引き続き、内モンゴル自治区通遼のホルチン沙漠。前述のように一部ですが森の形を成している区域もありましたが、このあたり一帯は沙漠になる前は草原。放牧の盛んな地域だということでした。原因は過剰な放牧によって根こそぎ荒らされた人災沙漠。老人農夫の話によれば、子どもの頃は胸の高さまで草が生い茂っていたということでした。 あまり言いたくないが日本の低価格ブランドのウール製品は沙漠化の一端を担っているようです。

 植樹に参加していつも考えてしまうのは自然現象の事。昨今の異常気象には地球の破滅もそう遠い未来の話ではなさそうな現象に文明社会とは何かを考え直した方がいいのかもしれませんが、60万年どころか6年後だって不確かな年齢に達していると、わずか数百年の間の文明社会による荒廃に便利さを享受してきた私にも責任の一端はあろうかと、植樹の一本一本に願いを託さずにはいられません。

 翻って日本は秋になると日本全体が錦絵のような紅葉に包まれます。紅葉黄葉といった落葉樹の種類が世界一といわれるのは気象条件に恵まれているからでしょう。そのような景色が毎年訪れるのは当たり前と思って年々過ごしていますが、世界の沙漠化はすごいスピードで進んでいます。そのうち上昇気流の変化によって雨の少ない日本になれば豊かなこの国も沙漠化することもあながちないとも云えません。近年の世界規模による異常気象の沙漠化は他国の現象であって、日本には関係ないともう言えなくなってきているように感じます。

 春の美しい桜の季節も、秋の趣のある枯葉もやはり後世に残していきたい財産だと山裾に広がる錦絵を観ながら考える日本の11月の風景です。

 ご意見ご感想をお聞かせください。      竹本梢

15/07/30
№16 慶州ナザレ園 ④

                 ※
 今まで金先生やナザレ園のおばあさん達を中心に書いて来た。
 ここで園長の宋・美虎さんや日本の支援者の方たちのほんの一部にふれてみたい。
 宋・美虎園長のおばあさん達によせる愛情は半端ではない。エピソードをいくつか紹介したい。
 「彼女のナザレ園での一日は、深夜おばあさん達のオムツを洗うことで終わる。」といったのはナザレ園の支援には大先輩の広島の田中さん。
 「おばあさん達が亡くなったら『ご苦労が多く辛かったでしょうが、これでやっと日本に帰れますよ。』と語りかけながら丁寧に身支度されて旅立たせるそうよ。」と秋田の松島さんが語ってくれた。
 「他の韓国人施設の老人たちは、亡くなるときはナザレ園で死にたい。宋さんの手で看取ってもらいたいと言ってるよ。」と職員のムンさんは話してくれた。
 「宋さんの元で働きたくてナザレ園に来た」と女性職員は言う。
 おばあさん達からも職員からも「お母さん」と慕われる宋・美虎園長。あと10年とも15年ともいわれるナザレ園で「最後のおばあさんがいなくなるまで私はお世話します」と彼女は言い切った。

 時代に翻弄された韓国日本人妻は、夫の生活に合わせるように成功を収めた人々も多いと聞く。ナザレ園に入居することになった彼女たちは一言では言い表せない辛い体験をした人々の救済の場であると今まで書いてきた。
 「人の一生を100の数字に譬えたら99までは辛く苦しいものであっても最後の一つが幸せなら、その人の生涯は幸せであったといえよう」ということをどこかで聞いた。その言葉のように、神様は最後に金龍成理事長の深い愛と宋・美虎園長の優しさを与えてくださった。

 「金先生に出会えてよかったね。宋園長に最期をみてもらえてよかったね」と言って墓前に手を合わせた。だが、何より幸せだったのは私自身だったかもしれない。ナザレ園と出会い、金先生と出会うことで宝物を手に入れたように私の生涯をこの上もなく豊かなものにしてくれたからだ。
 2002年11月22日
                         ※

 慶州ナザレ園のほんの一部を書いた感謝の会での配布物は一部訂正や補足としました。  2003年金理事長が昇天されてからも年に一度は訪問していたナザレ園は2006年を最後にナザレ園はもとより韓国にも足を運んでいません。しかし、今でも支援し続けている個人団体の方々は日本国内に多数いらっしゃいます。修学旅行に行く高校も数校ありました。韓国の経済発展に伴い募金活動しか出来ない私の仕事は終わったのかなと感じられたことが原因といっておきましょうか。
 ここで一旦ナザレ園の紹介は終えますが、今後も韓国やナザレ園の珍道中等書く機会があれば書いていきたいと思っています。               竹本梢

15/07/22
№15 慶州ナザレ園 ③

 前回まではナザレ園の役割などを書いてきました。今回は入居者や新しくなった施設を紹介します。
                  ※
 人が人を愛するのに計算する人は少ないだろう。
 たまたま愛した人が朝鮮人であったということがどれほどの罪になろうというのか。
 終戦を機に日本は敗戦国になり、韓国は独立国となって、愛する夫の生まれ故郷についていくのは自然な道理ではなかろうか。それが罪だというのか。そして夫と渡った国の結婚制度の違いを知ったからといって、責められるものだろうか。
 その上、彼女たちの不運を決定的にしたのは、1950年勃発した朝鮮動乱であった。その戦争で夫や子供たちと生き別れた人も多い。韓国を離れないのもこの地にいればいつか我が子に会えるかもしれないという母の姿であった。

「わしの一生はあんまり幸せやなかったかもしれん。けど因縁に泣く奴は負けじゃ。わしはこの土地で機嫌よう死ぬ。けどな、死んだら魂だけは日本に帰るで・・そのゑ」(上坂冬子著慶州ナザレ園)
 韓国の土になると決心した彼女たちのために、金先生は日本海の見える甘浦(かんぽ)という町の山の中腹に墓を建てた。土地は秋田の田口さん。納骨堂は京都の石川さんが亡き母の供養のために建立に協力された。支援する会でも一部ではあったが協力は惜しまなかった。直線上には福井県に当たるという海に向かって建てられた墓標には「魂は日本に帰る」と刻まれている。現在42柱(当時)が眠っている。

 墓の建立と前後して、ナザレ園の居住が2001年日本財団の全面資金提供により新築された。
 「生きているうちにこのようなきれいな建物に住めるなんて夢のようだ」と、撮影当時には入居していなかったおばあさん達は素直に喜んでいた。ナザレ園は時間はかかったがすっかり生まれ変わった。
 (その中で二人だけが新居に移らなかった。そのわけを聞くと、ナザレ園のおかげで安定した生活が過ごせている。せめて新しい部屋を汚さないようにすることで恩返しとしたい、と語ってくれた福岡出身の福田さん。2006年私のナザレ園最後の訪問となった年に亡くなられた。)

 遡って1988年には、訪問すると最初に通される本館は、立正佼成会の【一食(イチジキ)平和基金】と韓国との折半協力により建てられた。全館バリアフリーの本館は入浴室やリハビリ室、食堂、応接間などと同フロアにどんな時でもすぐ駆けつけられるように職員の居室の両サイドに寝たきりや痴呆症のおばあさん達の部屋が並んでいる。自慢するようだがホールにある大型テレビやおばあさん達の個室に衛星放送が見られるテレビは映画「おんなだもの」という試写会で寄せられたご祝儀で寄贈させてもらった。その本館の落成式には現在でも日本で大人気の歌手キム・ヨンジャさんが駆けつけて歌って下さったという。残念ながらその式にはいたずら盛りの息子がいたので出席できなかった。預けてでも行けばよかった!!と、今でも後悔している。

 さて新築された建物に話を戻すと園長の宋・美虎(ソン・ミホ)さんが「今まで陽よけには使い終わったカレンダーやポスターで代用していたので、もう嬉しくて!!」と大げさに喜んでいたが、その言葉に象徴されるようにドレープ仕様のカーテンが大きなガラス窓を覆っていた。
 最初「そんなに長く使わないだろうからいいものを作らなくてもいいのではないか」という意見もあったようだが、「日本人が使わなくなったら、韓国人の老人ホームとして使用してもらいたい」という日本財団の会長(曽野綾子氏)の一言で目を見張るような建築物となったということだった。 (それに合わせるように居住者も変化していった。それまでは生活苦がにじみ出ているようなおばあさん達が多かったが、いつの間にか上品な身なりの日本の有料老人ホームのような雰囲気が漂っていた。)
                   ※
 今までの拙文は≪慶州ナザレ園理事長金龍成氏の感謝の集い≫の配布物のためかいつまんでざっと紹介して来ました。次回は日本語の勉強のためナザレ園へボランティアで入ったまま四半世紀を送った園長の宋・美虎さんのエピソードを紹介します。
 韓国と日本の溝は深まらない中、多くの日本人妻は韓国の地で眠っています。それが幸か不幸かは当事者ではない私には計り知れません。        竹本梢

15/06/05
№14 慶州ナザレ園 ②

  前回から続いて金龍成氏を支援する会の拙文を続けます。

 №2
 この支援する会(金龍成氏を支援する会)を始めた動機は、(株)イエローハットの鍵山秀三郎氏のご厚意により制作された映画「ナザレの愛」(1987年・制作 日本映像企画)の完成記念事業としてであった。
 「てんびんの詩」撮影終了後、竹本の知人達で何度か企画された「てんびんツアー」に参加した人や、「ナザレの愛」の映画を観た人を中心に始めた会でもあったが、ここでどうして「金龍成氏を支援する会」という名称になった少し紙面を割きたい。
 金先生は竹本と鍵山氏との会談の中でこうつぶやかれたという。
 「ナザレ園はオンドルを焚く煉炭代にも事欠く始末です。」
 オンドルとは韓国の厳しい冬の家屋に不可欠な床暖房のことで、煮炊きものをする際の余熱を利用した暖房の事である。それを聞いた私は「大きいことは出来ないが、煉炭代くらいなら何とか出来るのではない?」それに金先生が日本人妻だけではなく韓国内外の複合的な福祉の仕事をされていること、日本人のお世話をしていることで弾圧を受けながら黙々と耐えられていたこと、それなのに日本からの充分な助成金もない中お世話されているのに、相手が日本人だからということだけでナザレ園を支援していいものだろうか。もっと金先生がご自由に使われていいように、ということで「金龍成氏を支援する会」が誕生した。だが支援金はナザレ園のためだけに使われていたと園長の宋美虎さんは言う。
 最初、金先生は「私がもらうようで嫌です」と戸惑われていたが、その後サハリンに強制連行された人たちの帰国支援や中国ハルピンの日本人残留婦人の居宅援助等「頂いた寄付の中から自由に使わせてもらっている。助かります」と言っていただいたのが会を始めてから5~6年たった頃だろうか。その時ほど「やってよかった!」と思ったことはなかった。

  初代支援する会代表は映画「ナザレの愛」完成後一年余で急逝したが、支援する会をどうしようかと思いながら、会員になって頂いた方々に没後初めて私の名前で呼びかけた。しかし、それは落胆するに充分な金額で、力が抜けるようであった。だが、会員の石川県の山下氏や熊本県の原山氏が期せずして「最後に僕一人になってもいいから続けてください」の一言で今日(2002年)まで続けられたと思っている。
 【現在は一時停止状態】

 さて、ナザレ園は1972年に設立されたと前回書いたが、当初は「帰国者寮ナザレ園」として日本人の菊池政一氏を初代理事長として出発したのだという。1969年、釜山にある日本総領事館が「在韓日本人永住帰国希望者」とその子のために必要費用一切を援助して帰国支援に乗り出した後、落ちこぼれた人々の世話を一時的に受け持つ役割を含めての設立であった。しかし、帰国しても身元引受先がなかったり、あっても朝鮮人なんかと結婚したような者は一族の恥だといって玄関先で追い払われたり、敗戦や朝鮮動乱で転々と住居を変えるうち戸籍を消滅したり、長年の韓国暮らしで日本の生活習慣に馴染めなかったり、等々、様々な事情はあるものの二度と日本には帰れない、また帰りたくない人々が肩を寄せ合って、30年の歳月(当時)が流れた。

 帰りたくない事情で、硬く口を閉ざした人は差別に苦しめられた人も多い。韓国に渡った彼女達を待っていたのは、夫が日本で受けた差別がそのまま、跳ね返っていたのだった。否、それ以上だったようだ。
 毎年のように訪韓しているが、韓国日本大使館に映画上映のため行ったことがある。当時韓国では日本映画はもとより日本語の歌すら歌うことが禁じられていて、一般上映は許可が下りなかった。日本映画を観るには、大使館に行くしかなかったようだ。当然日本人が多いのかと思ったが「映画を観に来ている人は大半が韓国人ですよ」と文化担当の大使館員はいった。その席でだったか、映画人による日韓交流のパーティの席上でだったか定かではないが、「日本では韓国人への差別がきついが、ここではどうですか?」と尋ねると「韓国での日本人への差別は日本の比ではない」と意外な返事が返ってきた。なぜなら、私の周りの韓国人は友好的な人が多く、差別など考えたこともなかったからだ。もっとも、日本語の話せる韓国人のうえに、韓国語は話せず、聞けないのだから理解不足といえばこのうえない。
 【後日談だが、少しくらい話せるようにと知り合いの韓国人(金先生のご長男の留学先上智大学時代の恩師)に教えてもらいに行こうとしたら、私は北朝鮮出身だ。訛りが違うのでうっかり教えてあなたが韓国で話したら北朝鮮からのスパイと思われるといけないので、教えられないと拒否されてしまった。多分関東と関西くらいの訛りの差ではなかったろうか。それ以来とうとう韓国語を覚えるチャンスを逸した。】        

 チラシはまだ続きますが、これまでがナザレ園とのかかわりでしたが、あとは入居者とのエピソードとなります。  竹本梢



15/04/16
№13 慶州ナザレ園 ①

 断捨離なるものを実行しているわけではないのですが、そろそろ身辺の整理にかかろうかと処分品の中からB3サイズを二つ折りした都合4頁に亘る配布物が出てきました。日付が2002年となっています。配布物はてんびんの詩の韓国ロケで、初代代表者の故竹本が通訳の人に導かれるように訪問した慶州にある日系婦人保護施設「慶州ナザレ園」(以下ナザレ園)の理事長故金龍成(以下金先生)氏の講演会を大津で開催した時のナザレ園紹介の拙文でした。
 拙文とはいえ、あまりに長いので数回に分けて紹介していきたいと思います。

 てんびんの詩が三部作に分かれているのは、てんびんの詩ファンならご存知だと思いますが、第二部の「自立編」の舞台は半分が韓国でした。当時(1985年)韓国で日本人による撮影は許可が下りず、韓国側の監督李尚彦氏のご尽力により、厳しい統制下でありながらも撮影は許可され順調にロケは進行しました。その後残念なことに李監督は撮影中に事故のために亡くなられましたが、もしご存命であれば私と韓国との交流は今でも続いていたかもしれません。  日本映画はもとより日本語の歌さえ歌えなかった日韓関係も「冬のソナタ」ブームにより雪融け間近かと思われましたが、融けきらずにまた凍り始めているのはご承知の通りです。

 韓国内での日本への厳しい制約のある中、日本人妻のお世話をしている金先生の立場は凡人では計り知れません。そのような金先生がナザレ園の行く末を案じられるのは当然のことです。ナザレ園の後継者を日本各地の支援する会の皆様に知ってもらいたい。その機会の場を竹本さんがやるならしてほしいと名指しで云っていただきましたが、どうして先生はぼんやりしている私を選ばれたのか今も不思議です。多分どこにも縛られず一人で「支援する会」の活動(主に募金集めで)をしている姿にご自分の辛い立場を重ね合わせていたのでしょうか。だがそのことで先生亡き後、ナザレ園から離れていくことになろうとは予想すらできませんでした。私が人の心の奥深い声が聞き取れなかったのが大きな原因でした。

 前置きはここまで。2002年11月23日びわ湖の畔で行われた「金理事長感謝の集い」の配布物を書かせて頂きます。ほぼ原文通りですが少し補足しています。

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     日本人妻の保護に半生をささげた金理事長への感謝の集い
          《慶州ナザレ園30年の愛の軌跡》

               ≪ナザレ園と私≫
 韓国に日系婦人保護施設慶州ナザレ園(以下ナザレ園)が設立された1972年(昭和47年)は日本では沖縄本土復帰が実現、日中国交正常化の共同声明が出され、戦後の復興が確たるものになって行った年であった。また70歳以上の老人医療無料化をはかる老人福祉法が成立、老人の保護が約束された年でもあった。そのように経済が安定していく日本であったが、多くの人たちは異国で悲惨な生涯を終えようとしている、いわゆる日本人妻と呼ばれる人たちがいることなど知るすべもない。
 そのナザレ園に日本人の目が向けられたのは、設立から10年経った1982年(57年)、作家上坂冬子氏が上梓した「慶州ナザレ園」(中央公論社刊)によってである。その後NHKなどのメディアの電波により、その名は広まった。しかし、ナザレ園がどのような状況下で運営されているかを知る人は、ごく限られた一握りの人々であった。

 上坂氏の出版より3年経った1985年(昭和60年)、戦後初かといわれた日韓合作映画「てんびんの詩 自立編」の韓国撮影でそこの通訳が「ナザレ園は知ってるか」と聞かれたのがプロデューサー兼脚本の故竹本幸之祐が最初に耳にしたナザレ園の名称だった。
 そしてその足で訪問したナザレ園を目のあたりにして、彼はショックだったらしく、その晩国際電話がかかって来た。「ナザレ園は知ってるか。」

 《ナザレ園》とは知らなかったが、以前、NHKでそういう日本人が外国にいるという番組を取り上げていた。当時の私は子育てに振り回されていて、TVをゆっくり見る暇など皆無に近く、それでも背中で見ていたのか《そういう人たち》の記憶がぼんやりと残っていた。「以前、テレビで見たことがある。そこがそうなの?」それは私がはっきりと記憶にとどめた瞬間であった。その時はこのように17年(当時)もご縁が続くなど思いもよらなかった。

 もともとドキュメント映像作家だった竹本は、松竹と提携して「ナザレ園の日本人妻」を劇映画化したい様子だった。しかし、話を聞くうちナザレ園は誰が何のために始めたかという疑問に当然ぶつかっていく。そこには理事長の金龍成(キム・ヨンソン)(以下金先生)氏の生い立ちがあった。彼は日本の官憲のため孤児になって、自力で学び、戦後すぐに孤児の収容から始まった福祉家である。その孤児の一人が厳寒の中、カマス(藁むしろで作った袋。主に穀物、塩、石炭などを入れるのに用いた)にくるまれて運び込まれた日本人の子供を救えなかったことが、彼を日本人妻の保護へと導いたことを聞いた私は竹本に言った。「あなたの仕事は、劇映画を作ることではない」


 撮影開始後、キムチも焼肉も食べられないので韓国は行きたくないと駄々をこねた私を半ば強引に連れて行かれるまで、金先生にはお目に掛かったことはなかった。それは宗教的にいえば神様のお導きだったのかも知れない。もしその時劇映画になっていたら、支援する会は出来なかっただろうし、金先生という愛の偉人に出会うことはなかっただろう。      続く 竹本梢

14/12/26
№12 バナナの思い出

バナナは果物の中で一番リーズナブルな値段でいつでも購入できるようになりましたが、バナナに特別な思い入れを持つ人も多いかと思います。昭和20年代後半でもバナナは滅多に口に入らない高価な食べ物の代表格でした。はっきりとは覚えていませんが、小学校に上がった頃だったと思います。一緒に外出することが滅多に無かった父が珍しく妹と映画を見に連れて行ってくれました。
当時の映画は娯楽の王様。映画館に入っても立ち見が出来るほどでした。その映画館に入る前にバナナを一本ずつ買ってくれました。映画のタイトルも内容も全く覚えていません。なぜたったそれだけのことで、そのシーンが思い出せるのかはこんなことがあったからです。
妹は映画が退屈だったのか途中から態度が散漫になっていくさまが受け取れました。そのうち、トイレに行きたいと言い出しました。が、その前にバナナの皮で滑るか試したいと、不届きにも通路にその皮を放り出しているのが聞こえていました。映画を観ているうち、その所作は本人もすっかり忘れてしまったのかトイレに立った妹がその皮を踏んで自分が転んでしまいました。後で父から大目玉を食らったのは言うまでもありません。
そのシーンをある在日韓国人の女性からバナナにまつわる思い出を聞いたとき、四半世紀近く経って半ば忘れかけていた思い出が蘇ったのでした。

在日2世の彼女の思い出はとても哀しい物語でした。昭和30年代前半でも日本人の多くは今では想像すらできないとても貧しい生活をしていました。その中でも在日の方々の差別や困窮には想像し難いものがあります。彼女は私より10歳くらい年長の方でした。どういうきっかけで親しくお話しさせていただくようになったのかは定かではありません。デザートのバナナを前にふと漏れた話が、記憶の糸を手繰り寄せたと同時に彼女の話には胸に迫るものがありました。私の年齢が亡くなった妹と同じだということで、懐かしさを覚えられたのだろうと思います。
当時彼女の一家はとても貧しくてまだ10代だった彼女は一家の家計を賄っていたようです。病床の妹は姉である彼女にバナナを食べたいとねだったようです。そこでバナナを買ってしまえば、一家の一日の食費が消えてしまう。そこで病気が治ったらと宥めたようですが、その妹は間もなく死んでしまいました。あの時なぜ家族が一日食べなくとも亡くなっていく妹に食べさせてやれなかったのかと、その後一家は努力の甲斐があり、比較的豊かな生活を営めるようになってからもそのことがいつまでも心に引っかかり、バナナは食べられないと語ってくれました。
同じ妹でもバナナの皮で転んだ出来事と死なせてしまった話とでは、聞かなければよかったと後悔したくらい今でもバナナを見るたび胸が締め付けられます。

戦後初かともいわれた日韓合作映画「てんびんの詩」第二部の撮影で韓国に度々行くようになった時、監督のご自宅を訪問しようと土産は何がいいかと聞いたら、先方からバナナがいいと所望されたことは偶然とはいえ、当時のお国のあり方の違いを知ることとなりました。当時日本はすでにバナナは誰でもいつでも簡単に買える果物の筆頭格でした。韓国は昭和60年代に入った頃でもバナナの輸入が規制されて、一般庶民には手の届かない高価な食べ物だったと後で聞きました。デパートで求めた一房のお土産は大層喜ばれました。
今ではもうそんなことはないと思いますが、甘いバナナがほろ苦く感じる思い出の一コマです。

ここでふと思い出しました。「てんびんの詩」の一部二部の梅津監督は、下宿先のおばあさんにサツマイモをお土産に買ったようです。戦前に働き盛りを過ごしたおばあさんにとって、代用食のようになっていたサツマイモに嫌悪感を覚えたのか、「芋なんかよりバナナの方が良かった」と不満を漏らしたようですが、監督がぼやきました。「バナナよりサツマイモの方が高いのに・・」

時代とともに変わっていくモノの価値。
皆さんのバナナの思い出はいかがでしょうか。     竹本梢
14/10/28
日中友好砂漠緑化団に参加しだして今年で8回目。13年前から活動しているので5回は行けなかったことになります。今回の訪問地は内モンゴル自治区ホルチン砂漠。当時は見渡す限りの黄土の砂漠。宿泊施設もなかったので初めて訪れた時はテントを張ったとは団長の話。
13年たつとその土地に適した樹木が頑張って伸びていました。そこには植林ボランティアに参加した日本ではなじみの深い企業名の石碑がかなりの数で散在しています。植樹は主に障子松、あるいはポプラ。日本のように潤いのある表土のある土地には何を植えても育つでしょうが、砂漠地帯には適用する植物しか育ちません。その内モンゴル自治区で植林活動をしている日本人は青年真っ盛りの若人が二人。現地の生活にすっかり溶け込んだかのように黒く日焼けして逞しい。過去に私たちが出かけた緑化は大同の黄土高原や寧夏回族自治区銀川のムウス砂漠など。ほかにも日本からも植樹に挑んだ団体は数多くいたようですが途中投げ出したグループも多かったと聞きましたので、彼らは成功したグループといえましょう。
黄土高原も銀川も道路が整備されていて近くまで車で移動できましたが、今回出かけたホルチン砂漠は一般車両が入らないのでトラクターやジープの荷台に乗って移動。それも途中まで。そこから砂漠の中を歩くこと小一時間。砂に足をとられUPダウンのある道は今までで一番過酷な場所でした。

砂漠はイメージ的には砂を想像してしまいますが、岩石だったり礫(コイシ)だったり砂や土だったり、各地で形態が違うようです。現地ガイドさんの説明では礫砂漠をゴビ砂漠とか。モンゴルにあるゴビ砂漠はてっきり名称だと思っていたのですが小岩ばかりが延々と広がっている砂漠を指すようです。
この地が最初のボランティアの植林地であったなら、二度と参加しなかっただろうと思われました。今回若人が数人参加しましたが、慣れない食事などで体調を崩して音を上げていたので二度と行かないかも。

今回は砂状でスコップで掘ってもすぐ崩れる砂を深さ5~60㎝ほど掘り進むがまるで蟻地獄。掘ってもすぐ崩れるのでなかなか進まない。ようやく掘れて松を植え込んで根本を固めてから最後にバケツリレーで水をかけるのですが地下からくみ上げた水は黄土色に濁っています。砂漠は掘れば地下水が豊富だということですが、飲料には向かない水質のようです。雨が降らないので一週間後に再び水をやるとのことでしたがこれは地元の農民の仕事。始めの頃、作業をしている彼らを遠巻きに眺めていた農民たち。しかし数年経ち植物が育ち始めてからその作業が村の経済を潤すことを知った農民たちが動き出したとか。キノコの収穫や小動物は食糧に、選定した木片は燃料になるなど、農民が「儲かる」という魅力を感じる植林でないと成功しないようです。

砂漠に関連したことですが35年くらい前、40日間ほど水をテーマにしたアメリカの取材にスタッフの一員として行った事があります。その中で印象的だったのが砂漠。アリゾナの砂漠ではコロラド川に沿って二泊三日の移動でしたが、とにかくまっすぐな二車線のローカル線。飛行機の上から見たら碁盤の目のように道路が縦横に見えます。その十字路に差し掛かるとそこは小さな町。レストランやGS、ホテルに教会などとそこに働く人の住処が大体3時間くらい走ったところに点在していました。ちなみにその頃はヒッピー族が謳歌したころ。なんとその砂漠の道を歩いているのです。私たちは機材で満杯状態だったので横目でスルー。
走れども走れども周囲は砂漠。山脈は遠くの彼方に地平線と溶け込むような風景でしたが前方には小高い丘陵が。しかしその丘陵を超えるとシーン代りで赤い土やコロコロと風に舞う枯草のようなサボテン、砂利だけ砂だけ西部劇に登場するサボテンも。丘を越えるたび次はどのような風景が見られるかとワクワクして居眠りする暇もありませんでした。そこは軍事訓練も行う場所らしく夜には照明弾で昼間のように煌々と照らされている場面も。10年ほど前から中国砂漠緑化のボランティアに参加したのは過去の砂漠のワクワク感が忘れられなかったからでしょう。

まだアメリカと中国の砂漠しか体験していませんが、2012年初めて植林以外の砂漠のツアーに参加しました。新疆ウイグル自治区のタクラマカン砂漠です。北に天山山脈、南に崑崙山脈に囲まれた世界で二番目に広大な砂漠です。その広さは日本の国土に匹敵するとか。前年ホータン河に沿って第二公路が出来て車で3日ほどでクチャ(庫車)からオアシス都市のアクス(阿克蘇)、ホータン(和田)経由でカシュガル(喀什)まで行けましたが、以前は第一公路しかない時は途中砂漠でテントを張って宿泊しなければいけなかったとは、帰りの機中で偶然隣り合わせた和歌山に留学しているウルムチ出身の女性の話。ホータンにいる叔父が亡くなったので葬式に出かけた時の模様を話してくれました。
そういえば以前男性ガイドさんはラクダで10日かけて横断したと話していたっけ。

タクラマカンとはウイグル語で一度入ると生きて出られないという意味を持つそうですが、私たちが行った季節は5月。一年中で一番穏やかな気候だということでした。冬は凍土になるし夏は灼熱の地獄とかで私たちの行程中は快適。それでも雨の少ないイメージがある砂漠で暴風雨に遭ったり、砂嵐かと思えるほどの流砂が視界を遮ります。砂嵐だとバスが埋まるほどとか。流砂で道路が塞がるため道路に沿って葦のような植物が砂留めの役割をしていました。行程1200㎞に亘り延々と。中国の底力を見る思いでした。

今回も訪問の記念として砂のお土産。タクラマカン砂漠の砂は黑っぽい砂粒が見えます。ホルチン砂漠の砂はパウダー状。それでも白粉に使えそうな黄土高原の微粒子からみたら、まだ砂の形状は残っています。
この砂が偏西風に乗って黄砂として日本の上空に飛んで来ています。
民族紛争で自治の不安定な新疆ウイグル自治区ですが私たちが行ったときは大規模なテロが起きる前。今では彼の地に行く日本人がいないので、仕事がなくなったと馴染みのガイドさんは上海に出稼ぎ。彼女は日本に行ったこともないと言っていましたが、ほぼ完ぺきな日本語と中国語の話せるウイグル族なので旅行会社に重宝されているようでした。早く自治が安定し日本人が安心して新疆に行けるようになったらまた彼女が附いてくれるかも。ちなみに名前は発音が「マドンナ」に聞こえなくもないので皆からマドンナと呼ばれている明るいお嬢さんです。 竹本梢

14/09/05
列車に乗ると車窓に流れる景色を眺めるのも楽しみひとつ。仕事で遠出する機会はめっきり減りましたが、代わりにプライベートの旅行が増えました。つい最近も列車に乗る機会を得ていつものように外を眺めていて何やら違和感が。行き先が都心部でないせいかも知れませんが、立て看板がめっきり減った気がしないでもない。その数少なくなってきた看板の中に見覚えのある社名や商品名に出会うと古くからの友人に出会ったような懐かしさを覚えます。テレビや新聞、日々の買い物でのなじみの名称ではないもっと身近なもの。それは小社のデータの中に存在しているいわゆるお客様である企業名でした。有名無名過去に一度ならずとも伝票を書き、送り状を書いて来た脳が覚えているようです。不思議なもので手書きだと体が覚えてしまうのか、数十年たっても覚えているのに、パソコンで管理するようになりキーボードで打つようになるとなかなか覚えられません。パソコンのせいにしていますが老年特有の記憶障害の一つかもしれません。それより社名変更がそれに拍車をかけているのだと思っていますが。

パソコンで管理するようになってからも1万件近い。紙データを合わせると3万件近くありましょうか。日本の法人は30万社だとかいうので、その一割にも満たない法人ですがや教育機関、行政機関などのデータが小社の大事な財産となっています。
PCでの管理はウイルス感染防止に対処してネットにつながない顧客管理専用のPCが机の上に載っています。一台にすれば管理が楽だとは思いますがまだPCは信用していません。機械類には絶対的に弱いこともあり紙データとしても記録しています。
PCを導入する前はA5ファイルに五十音順に一社づつ管理していたのでさすがに広い専用保管庫が必要でした。販売を主業務にあたり事業所を移転するときPCに移行した後は原本のみ残して機密書類溶解方法でファイルの書類は処分せざるを得ませんでした。

関係書類は10年の保存期間が過ぎれば処分していいということでしたが、原本は多分このてんびんの詩が人々の記憶からなくなっても保存されていくことでしょうが、原本は紙の劣化で随分危うくなっています。ボールペンの寿命は意外と長いようですが、紙は和紙ではないので、徐々に劣化が見られ50年も残るだろうかと危ぶまれます。ちょうど著作権が50年の保護だとするとそれらの記録媒体も50年ということになりましょうか。その著作権が70年に延びようとしています。

現在映画の記録媒体はフィルムからビデオテープへそしてDVD‐Videoディスクといった光媒体に切り替えられていますが、その媒体は耐用年数が未定のようです。 フィルムは100年前のものが上映可能の保証済みだと云うことですが、光媒体はまだ未知数のようです。ディスク表面に指紋やほこりを付着させないなど取り扱いの通常の使い方をした場合30年といわれていますが紫外線や高温・多湿環境下に長時間放置したり、強い衝撃を与えると耐用年数が短くなるということですのでくれぐれもお取り扱いにご注意を。

近年情報流出で世間を騒がせた企業もありましたが、顧客の情報を欲しがられるのは小社も例外ではありません。類似の会社から懇願されたこともありましたが、データを提供するのは論外。即断ったのは言うまでもありません。しかしPCに移行してからは社員が出さなかったとは言い切れないので、管理は今ではパスワードを打たなければならないPCに移していますので外部に漏れることはないと信じています。某教育関連企業と比較するにはゾウとネズミほどの違いがありますが、個々の情報が宝物であることには変わりはありません。

14/07/15
統計の数字には多くの真実が隠されているようで興味深いものがあります。
私達の住む滋賀県は京都・大阪に近いせいか貯蓄率も全国平均よりかなり高い順位にあり、着物の保有率も京都に次いでタンスの肥やしになっていそうな数字に出会うと、節約と浪費が同時に押し寄せたような不思議な気がします。こと貯蓄に関しては誰かが一手に引き受けているのだろうと思いますが、着る物に関してはタンスの肥やしには納得がいきます。
それより、滋賀県の平均寿命は意外と高く、自然や環境に恵まれているのでのんびりした風土が平均寿命を引き上げているかのようですが、最近は寿命より健康寿命が重視されています。その中で滋賀県の女性の健康寿命は昨年はワースト1という何とも不名誉の数字に、頭の中ではいろんなドラマが展開します。この数字は年ごとに変化していくことでしょうから名誉回復のために頑張らなければなりませんが、その数字にある一人の女性の生き方を垣間見た気がします。

10年あまり前のことですが、当時60歳代半ばだった彼女は年齢相応に体の不調を訴え続けていました。ひどくならないうちに治療に行ったらと勧めたのですが、当時は70歳になると医療費が無料だったので、それまで行かないと云っていました。しかし高齢者の医療費が財政を逼迫して70歳でも負担するようになり同時に介護保険の負担も弥増して、老人になったからと云って病院の待合室をサロン化させてくれませんでした。件の女性は早めの治療をあと伸ばししたせいかどうかはわかりませんが、まだ70歳代なのに寝たきりに近い状態になり、老人病院を転々としているらしいということを耳にしました。

資産は平均以上にあっただろうと思われますが、運動など健康を維持する努力を節約されたようでその女性を見ている限り、最後はお金より健康が大事だよねと思ってしまいます。
もちろん私が他人を非難するほど健康管理に万全を尽くしているとは言い難いので誹謗するつもりはありませんが、彼女からは多くの学びを得ました。
長いようで短い寿命も健康であればこそ生きていると実感できましょうから。

先ほど滋賀県は知事選がありました。滋賀県は琵琶湖の赤潮発生によるせっけん運動から始まった住民による草の根自治を提唱してから40年になります。そこに今回政権与党が推進する経済政策を柱とした官僚出身者が立候補しました。結果は草の根自治が勝利を得ました。滋賀県は近畿1400万人の命を支える琵琶湖を抜きにして自治は語れないと思いますが、経済発展はその命の水を脅かすことにもなり兼ねません。この滋賀県は冒頭に書いたように経済的にはいつも上位に位置しています。所得も貯蓄も物品購入も意外なほど豊かな数字を表しています。近江商人を語る上で欠かせない勤勉や節約などが一般県民にも浸透しているかのようです。しかし、健康寿命が最下位に他人ごとではない自分の未来が垣間見えるような気がしないでもありません。

14/05/10
電話からのご発注では雑談の中で「てんびんの詩」はどうして生まれたかというご質問が今でも多々あります。
この物語はフィクションではなく、いくつかのエピソードから構成されています。きっかけになったのは当時びわ湖放送の番組企画で故江頭恒治滋賀大学名誉教授に取材に伺ううち「こういう話がある」と切り出されたのが教授も、古老から聞いた話として語ってくれたと、この映画を製作した原作者の故竹本幸之祐が話してくれたことがありました。
至文堂から発刊された「江州商人」に10行ほど記録されています。
ネットを検索したら古書として手に入れることも出来るようです。

この映画がクランクインしても本当に年端も行かない少年に親が過酷な行商をさせることができたか信じられませんでした。現代社会では平面的にみたら差し詰め幼児虐待といえなくもありません。同時に一人の少年の育成は周囲の人々の深い愛情に支えられていることにも気付かされます。社会全体で子どもを育てていた時代ともいえましょう。
子どもに厳しい行商をさせることが現実にあったのか誰しも思うことはあると思います。だが少年に行商をさせていたところが実際あったのだと納得したのは、映画の中で小学校を卒業したその足で、大阪に奉公にいく同級生を見送る駅のシーンの撮影中のことでした。

当時まだ一歳になったばかりの私の息子が撮影の邪魔にならないよう、現場から離れた場所で見守っていました。そこに近所の人らしい老人が「あんたら、なにしてんのや」と聞いてきました。私は掻い摘んで「これこれ、こういう話を映画にしている」と話すと、なんとそのおじいさんは「ほう!なつかしいのぉ。わしらの子どもの頃そういうやつがようけ来よったわ」というではないですか。その瞬間この物語が架空の話ではなく、実際修行の行商があったのだと確信した瞬間でした。ただ非常に残念なことにそのおじいさんの居所も聞かなかったのは今でも痛恨の極みです。

なかなか売れない鍋蓋を前に絶望した時、ちょっとしたきっかけでたちまち売れていくさまは、原作者本人が体験した実話がクロスされています。演劇にあこがれて石川県の海沿いの村から京都に出てきた青年は、今でいうアルバイトに魚の行商を始めたようです。実家が小さな料理屋をやっていたので、魚の扱いは慣れていることによる職業の選択だったので しょう。知り合いもない京都の町を自転車の荷台にトロ箱を載せて町家を訪ねても相手にされない。売れ残った魚は廃棄する羽目に。数か月経ち、元手もなくなりもうこのアルバイトは辞めて田舎に帰るしかないと思っていた時、何度も通ううち顔見知りになった奥さんに声をかけられ、自分が演劇をやりたく上洛してきたことなど話したそうです。
京都という地域は一見さんお断りなど格式の高いところはありますが、大学の町でもある京都は文化人を育てる風土もあったようです。その話を聞いた奥さんは魚を買ってくれました。しかも近所に声もかけてくれたそうです。
原点編に見られる名セリフは彼自身の生き方にスクロールされます。母子のやり取りは、近江湖西から輩出した江戸初期の儒学者中江藤樹の幼年期をモデルにしたと梅津監督は語ったことがありました。ここまではてんびんの詩第一部のエピソードです。第二部以降は折にふれて書いていきたいと思っています。

このように取材と実話がもとになった映画ですが、DVDにリニューアルしたとき、第一部原点編のみですが外国語字幕を入れたことで、外国の方も見られるようになりました。
まだ日本語を含む英語、中国語、韓国語だけですが最近はブラジルや東アジアからの留学生や就労者も多くみられるので、それらの諸外国の字幕も制作できたらと思うこの頃です。

14/03/20
いよいよ4月から消費税が8%に引き上げられます。私たちの生活の大部分は税金によって成り立っていることを思えば仕方ないことかもしれませんが、それに伴う便乗値上げも起こりそうで商品を販売している小社も関連取引先の税金以外の微細な引き上げに悩ましいところです。小社は以前の販売価格を維持してできるだけ税金分も据え置きたいと定価そのものを下げることにしていますが、それでも感覚的には上がっているかのように見えなくもありません。しかも近い将来10%になるとか。
この消費税との付き合いは平成元年(1989年)4月初めて3%の消費税が導入されてからです。それ以前は贅沢品には物品税が課税されていました。
小社の主たる販売商品「てんびんの詩」にも10%が課税され、仕入れ先の管轄税務署に毎月報告していました。仕入れ先は当時京都の右京区にあった東洋現像所。今のIMAGICAです。現像所が出荷する数字と納品先である小社との数量が一致しなくてはいけないということで、見本品も含めての数量すべてに。
当時の販売価格はその物品税を含めての価格設定でしたので、3%の消費税には当然値下げすることになります。その後消費税は5%。それから17年。ここに至って8%となります。今回の増税には小社は出来るだけ5%時の維持に努め本体価格引下げの形をとりますが、端数が出る分だけはご負担して頂くことになろうかと思います。

しかし世の中には消費税など物ともしない方々がいるようで、札幌に本社があり京都に進出したばかりの建築施工会社に数年前に事務所兼住宅を依頼したのですが、それから順調な経営で高級住宅ばかりを手掛けるまだ若い社長はうちの顧客は消費税が上がろうと関係ないお客ばかりなので、増税しても仕事には大きな支障はない。と語る担当者の話になんと浮世離れをした会社かと、8%の税に苦慮している一消費者にとって一度でいいからそのように鷹揚に構えてみたいものです。
子どもは親の生き様や仕草が驚くほど似てきますが、社長と社員の関係でも社風というのは良くも悪しきも似てくるのかと妙なところで感心したものです。だが増税前の駆け込み需要で多忙を極めると、点検時にそそくさと帰っていったその背中には増税を気にする顧客の存在が理解できないのかなと、生活必需品の洗剤やトイレットペーパーと同等に扱われることに不満の様子が垣間見られたように感じたのは穿ち過ぎ?

豊かな国日本で教育・福祉・医療や身の回りの治安等々生活する上で税金の恩恵を少なからず受けていますので、お互い様の気持ちで消費税とともに生きていくしかなさそうです。
無駄遣いが多いのは否定しませんが・・・

14/02/04
「てんびんの詩」の視聴者は小社に情報が寄せられて知る限り下は小学4年生くらいから。授業の一環として視聴させたという先生から感想文を寄せていただいたので最年少の視聴者だと思います。とても素直な感想でしたので今でも印象に残っています。この映画はかつて商業芝居になったり、小学校の学芸会になったりと映画以外でも子どもたちに触れることもあり純な子どもの胸の奥にどう入り込んだのか、今でも覚えていてくれているかと気になります。近いところではこのホームページを制作してくれたディレクターが反抗ばかりしている中3の息子がこの映画を見て、落涙したので驚いたと語ってくれました。個人差はありますがその頃の年齢は子供の出口で大人への入り口。一番不安定な精神状態の頃。そのような時期にこの映画に触れ、彼の大人への入り口で何かを感じ取ってくれたら、制作者の思いが伝わったと思います。

この映画の制作者で脚本を書いた故竹本幸之祐は原点編を書き終え原稿を渡すとき、こうつぶやきました。 「たった一人でもよい。この映画を見た人の人生に何か示唆するものがあれば」 この言葉の意味するものは、月日が経つとともに深く感じられます。製作されてからすでに30年は越していますが、30年前は初々しい若者だった人が指導者としての立場に立った時、当時を思い起こすとそこには「てんびんの詩」があった。お電話などいただくと、そう言っていただける方は少なくありません。そしてDVD化され改めて見直すと当時の気持ちが今も継続しているというご感想に制作者のつぶやきを思い出さずにはいられません。

映画の内容は少年が何の変哲もない鍋の蓋を売り歩くだけの単純な物語ですが、観る人の置かれている立場や環境等で琴線に触れる場面がその都度違うと教えていただきます。 同じ映画を何10回となく観た方は多いですが、中には100回も観たという強者もいて驚いています。美術担当者が果たして意図的だったのか気づかない小道具にも映画の必要性を説かれた場面もありますが、観るだけではなく心で感じ取ってご自分の中の【なべぶた】に生き方を重ね合わせていると教えていただいています。

◎既に何回となく観た方はどの場面で共感されたでしょうか。 ご感想等教えていただければ幸いです。お問い合わせの項でご自由にお書きください。
13/12/25
誰でもかつては子ども時代がありました。そして子どものいる方も多いでしょう。子どもは時には天使、時には残酷、時には哲学者とオトナを惑わせます。 かくいう筆者も子どもに思わぬ質問を投げかけられておろおろした経験は二度や三度ではありません。その中で、今でも忘れぬことのできない質問が【自由って何?】
しかしとっさに出た言葉が「自由を車に置き換えてみよう」という言葉でした。ちょうど免許取り立て。双葉マークを四方に張り付けたいくらい恐る恐る運転していた私が、非常に感動したことがありました。「なんと、みんな整然と運転してる!!」と感嘆符を10個も20個も付けたいくらい優良ドライバーに感心していたからです。
その【自由とは】
何の躊躇もなくドライバーのマナーを譬えに出したのは言うまでもありません。

自動車免許という自由を手に入れるには運転技術がうまいだけでは免許は頂けません。私の場合は自動車教習所での講習の時間の半分近くは法規の習得に費やしたような記憶があります。法規はいわゆる決まり事。停車も右左折も決まりがあってそれに従わないと事故につながる。もちろん速度もいうに及びません。もろもろの決まりごとを守れる人が免許というご褒美を頂けるのですが、自由も社会の決まりごとを守れる人が自由人の仲間入りができると思っていたので、息子にその喩えを言ったのは必然なことでした。国には法律、学校には校則があるように家庭には家庭の決まりごとがある。その決まりを守った人が始めて自由といえると、まだ幼稚園児だったので優しい言葉を見つけて話すことは本当に難しかったです。

今でも車の免許を取っていなかったら、何を譬えにしていただろうかと冷や汗が出る思いです。まだ一度も事故は起こしていませんが、ハッとしたり、ドキッとしたり、運転時には25年たってもいつも冷や冷や。猛スピードで走り去る人はこんな経験はないのでしょうね。

◎「びわ湖の風」や作品についてのご意見ご感想等ありましたら、お問い合わせの項で何なりとお書きください。その他でも結構です。出来うる限りのご返信をします。 不定期でテーマも一貫性のない駄文ですが、最後までお読みいただきありがとうございました。
13/11/15
近畿1400万人のいのちを支えている琵琶湖のある滋賀県は、古くから淡海=近江と呼ばれて、その地から生まれた商人を近江商人と呼んできました。 信仰深く勤勉である一方、近江商人を揶揄した言い方に「近江泥棒伊勢乞食」と呼ばれていたこともありました。諸説があるのでしょうが、商才に長けていた近江商人や倹約家である伊勢商人を、宵越しの金は持たないときっぷの良さを見せていた江戸の民衆はやっかみ半分でそう呼んでいたようだと事典類では書かれています。これについては後日私見を述べてみたいと思います。

どの世界でも抜きん出てくると出る杭は打たれるといいますが、延いては近江商人=滋賀県人は自分が滋賀県出身者であることを公言できない人もいたようです。 原点編の試写会での挨拶で当時の知事は「地方の県人会の中で10人に一人くらいは自分が滋賀県出身者と名乗れないという人がいて、とてもさみしい思いがした」と語っておられました。前述の近江泥棒という言い習わしが名乗れなくしていたのかと思いますが、この映画の出現で、堂々と名乗れるようになったと語る人も出てきて「てんびんの詩」は滋賀県出身であることの壁を低くしたのかなと思ったものです。

私事ですが、息子が学童保育所に通っていた頃のことです。近くの住宅で自転車が盗まれたと怒鳴り込んできた人がいました。息子は自分が疑われたかのようにしょんぼりして帰ってきましたが、聞くところによりますと怒鳴り込んできた人は特定の児童を名指ししたわけではなく「学童保育」という集団に向かって汚名を着せたとのことでした。 その時息子にはこう言い聞かせました。集団の中のたった一人でも悪いことをした場合、全体がそうであるかのような思い込みになるが、一人一人がその集団の代表であるという自覚が大事なのだと。自転車はその後見つかったという報告がありました。それが原因かどうかは不明ですが、その後学童保育所には行くことはありませんでした。

◎「びわ湖の風」や作品ついてのご意見等ありましたら、お問い合わせの項で何なりとお書きください。出来うる限りのご返信をいたします。
13/10/07
「てんびんの詩」が世に出てからまもなく30年を迎えようとしています。その間に変化したものの一つに通信手段。郵便からFAXそしてインターネットへと変化していきました。映画が完成する前友人知人に予約を受け付けました。返信用はがきで可否を問う。実はその時点で予定より多くの人々からご予約のお申し込みがあり、この手のものは過去に売れたためしがないという業界の常識をそれから塗り替えていくことになっていきました。
返信はがきから間もなく導入したFAX受信機。送信する人も受信する人も慣れてなく、送信者は送信後わざわざ確認のお電話をいただきました。それは今でも変わりはありませんが、電話ほど信頼性がないという別の面でもありましょうか。「てんびんの詩」が広まって行った背景にもう一つ宅配便の目覚ましい発展も忘れられません。今では当たり前の風景となった遠隔地を除き翌日には玄関先まで届くシステムが「てんびんの詩」を広める要因の一つでもあったと思います。

ホームページをリニュアールしてひと月あまり。【びわ湖の風】を不定期でお届けしようとしていますが、ひと月以上間が空いてしまいました。

作品に関する裏話等また気が付いたことや、ご質問にお答えする形でつれづれに書くコーナーです。もし関心がおありでしたら、たまには覘いていただければ幸甚です。
13/08/26
てんびんの詩のホームページを一新しました
不定期ですがこのコーナーでは日常の中で気付いたものや、映画の中の習慣や方言等に疑問を持たれたであろう場面やいただいた感想文などを交えてつれづれなるままに、と洒落込んでみますので興味のある方はご一読くだされば幸いです。
13/08/01
おかげさまで今なお、各企業や団体、学校など、教育研修として多くの場で活用されております。 心喪失の時代といわれて久しい現在、私たちは、『温故知新』の故事に従い、改めて近江商人に焦点を合わせてみました。古きを知る、歴史に学ぶというのは、いつの時代にも大切なことだと思うからです。
時代がどんなに変わろうと、人と人の心は永遠です。見る人の立場、それは商業やサービス業にかかわる人々だけでなく子を持つ親や教育にたずさわる人々の過ごしかたの人生経験の度合いによって、受け取り方がそれぞれ違う感動を覚えていただけます。
  • てんびんの詩(第一部 原点編)
  • てんびんの詩(第二部 自立編)
  • てんびんの詩(第三部 激動編)
  • にんげんだもの
  • 夫婦だもの
  • 制作者 竹本幸之助

日本映像企画